東京地方裁判所 昭和41年(ワ)1377号 判決 1968年3月13日
原告 甲野花子
<ほか二名>
右原告ら訴訟代理人弁護士 上野高明
同 伊沢安夫
被告 学校法人 ○○大学
右代表者代表理事 樋口一成
右訴訟代理人弁護士 高橋義次
同 大塚仲
同 明念泰子
主文
原告らの請求はいづれも棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
事実
第一、当事者双方の申立
一、原告ら
被告は、原告甲野花子に対し金二、五〇〇、〇〇〇円、同甲野太郎に対し金三〇〇、〇〇〇円、同甲野よし子に対し、金三〇〇、〇〇〇円および右各金員に対する昭和四一年三月三日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。
訴訟費用は被告の負担とする。
との判決ならびに仮執行の宣言を求める。
二、被告
原告らの請求を棄却する。
訴訟費用は原告らの負担とする。
との判決を求める。
第二、主張
一、原告らの請求原因
1、原告甲野花子は、昭和二三年一二月三日生れで、原告甲野太郎、同よし子の四女である。昭和三九年三月六日、当時訴外○○○○は被告大学附属第三病院耳鼻科医長であり、訴外××××は被告大学大学院学生で、同病院医局員であった。
2、原告花子は、昭和三九年三月六日被告大学付属第三病院において、○○○○および××××両医師により、左耳慢性中耳炎根治手術を受けた。
3、原告花子は、右手術の際、左顔面神経を損傷され、強度の左顔面神経麻痺の障害を受けた。
4、原告花子が右の損傷を受けたのは○○○○および××××の次の過失による。
(一) 中耳炎根治手術は乳様洞内部を除去清掃することによって行われ、術刀が病巣に達するためにはこの乳様洞を目当に削開が進められ、顔面神経が迷走する部位に術刀を入れることになるため、執刀者には特に手術進行上右神経の露呈損傷なきよう充分注意を払って執刀すべき高度の義務がある。ところが執刀にあたった××××は、技術不足のため、普通程度の技術経験をもってすれば乳様洞に達するのには数分間しかかからないのに、手術開始後一時間たっても未だ乳様洞入口部に達し得ずあちこち削開しているうち病巣除去前の段階で誤って花子の顔面神経を術刀で損傷した。
(二) ○○○○は、右手術の執刀者であったにもかかわらず手術開始直前、病院内の会議に出席のため、急遽手術の前半を格別の注意をはらわずに経験の浅い補助者の××××をして単独に行わしめ漫然手術室を離れ、再び同室に現われたのは約一時間後、右会議が終ってからである。
5、原告花子は昭和三九年三月から九月まで被告大学第三病院整形外科に通院し、マッサージ療法、アリナミン大量投与療法を受けたが一向に顔面神経麻痺が回復しないため、同年一〇月五日千葉大学付属病院整形外科において回復手術を受けたが見るべき結果は得られなかった。その後も同年一二月から昭和四〇年六月までは再び被告大学付属第三病院整形外科において、同年六月からは多摩外科に通院加療中であるが受傷後二年近くを経過した現在においても当初の状態とほとんど変らず、なお左顔面に強度の麻痺を遺し左眼は完全に閉じることができず且つ常時唇が右につり上っていて笑おうとすると怒った表情になり、全体に容貌上著るしい醜形を残している。左頬の部分は皮膚の感覚を失い下唇がひきつれるので飲食物がこぼれる状態である。
6、原告花子は、手術当時日野市立七生中学校三年在学中で、同年四月からは東京都立府中高校に進学したものの本件事故の治療および容貌上の醜形のためわずか一ヶ月足らずで同年五月から翌四〇年四月まで休学のやむなきにいたった。また原告花子は受傷前は快活な性格であったが本件により容貌に醜形をとどめる様になってからは性格が著るしく内攻的になり自棄気味の言動をしたり家に閉じこもりがちのうえ、家族の者とも話したがらず以前の明朗な性格を失ってとかくふさぎがちであり笑いがみられなくなっている。本来ならば楽しい青春時代を過し将来夢多い日々を過し得るはずであるのに女性の生命ともいうべき顔に終生いやし難い本件傷害を受けることによってこれらすべての希望を断たれ且つ学校生活、日常生活のすべてにおいていいようのない精神的苦痛を味っている。この損害を金銭に見積れば金二、五〇〇、〇〇〇円を下らない。
7、原告甲野太郎、同甲野よし子は花子の父母であり格別愛情を抱いていた末娘の花子の受傷により多大の精神的打撃を受けその苦痛を金銭に見積れば各金三〇〇、〇〇〇円を下らない。
8、右損害は被告大学の被用者たる○○並びに××がその業務執行につき原告らに加えたものであるから、被告は使用者として原告らに対し本件損害につき賠償の責任がある。
9、よって被告に対し原告花子は金二、五〇〇、〇〇〇円、原告太郎、同よし子は各金三〇〇、〇〇〇円およびこれらの金員に対する訴状送達の翌日である昭和四一年三月三日から支払ずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二、請求原因事実に対する被告の答弁
1、請求原因の事実は認める。
2、同2の事実は認める。ただし、手術は左耳慢性化膿性中耳炎(仮性真珠腫性中耳炎)の根治手術である。
3、同3の事実中原告花子の左顔面神経不全痳痺の事実は認める。これは花子の病変が既に顔面神経管を犯していて病変除去のため額面神経を露呈したことによるものである。
4、同4の事実は否認する。医師が原告主張のような注意義務をおこたった事はない。
5、同5の事実のうち、花子が被告大学第三病院整形外科に通院治療を受けたことは認めるが、その余は不知。
6、同6、7、8、9の事実はいずれも争う。
三、被告の主張
○○は当初の執刀者ではなく、××が医長より執刀の技倆充分と認められ単独執刀者としての許可が与えられていたもので、同医師は当時既に二〇数例におよぶ中耳炎根治手術の経験を有し、花子の手術に際しても手術進行上充分の配慮を払い、脳膜に沿って骨削開を進めたところ乳様洞開放困難で顔面神経損傷の危険もあったので慎重を期して○○の陪席を要請した。○○は大学病院内での会議中××より右依頼を受けたが、通常の方法では乳様洞に達しえぬと考え、外耳道後壁より骨削開を進め、鼓室側より乳様洞入口部をゾンデにて確かめつつ開放し、不良肉芽および仮性真珠腫を清掃したところ、同部位に接触する神経管部位に顔面神経の約一平方ミリメートル程度の露呈が認められるとともに、顔面神経の不全痳痺が認められた。このように原告静枝の顔面神経管は慢性中耳炎の炎症破壊機転により既に侵されていたのであり、このような場合手術により病巣を除去し、侵襲を受けている神経管を開放し、神経を露呈することは手術の常道でありこれをしなければ炎症が進行し、頭蓋内合併症を起し生命に危険がある。
本件はこのように顔面神経の露呈部の骨壁内管または管内の出血および浮腫等による圧迫が痳痺の原因として考えられる。このような場合、神経の露呈の結果顔面神経痳痺が多少残ることがあるが次第に回復治ゆするのが普通である。尚原告は術後半年足らずのうちに他病院にて顔面の痳痺に対する手術を受けている。
四、被告の主張に対する原告の答弁
被告主張事実はいづれも否認する。
第三、証拠関係≪省略≫
理由
一、当事者間に争いのない事実
原告甲野花子は昭和二三年一二月三日生れで原告甲野太郎、同甲野よし子の四女である。昭和三九年三月六日当時○○○○は被告大学付属第三病院の耳鼻科医長であり、××××は被告大学大学院学生であって同病院の医局員であった。原告花子は昭和三九年三月六日同病院において○○○○、××××の両医師により中耳炎根治手術を受けたが、その際原告花子は左顔面神経不全痳痺の障害を受け、そのため同年三月六日から九月まで被告大学第三病院整形外科に通院し、マッサージ療法、アリナミン大量投与療法等の治療を受けていた。以上の各事実については争いがない。
二、本件手術における○○○○ならびに××××の過失の有無について判断する。
1、≪証拠省略≫によれば次の事実を認めることができる。
原告甲野花子は幼時に急性肺炎を罹患後中耳炎の症状があらわれていたものであるが、昭和三八年一〇月二二日頃被告大学附属第三病院耳鼻科において○○○○医師の診察を受け、その結果同医師より左耳慢性化膿性中耳炎、同根治手術の絶対的適応との診断がなされた。そのため花子は昭和三九年春高校入学試験合格を機会に右手術をうけることとなり、同年三月五日同病院に入院し、翌六日その手術をうけた。
××××医師は、医師免許を得て後被告大学附属病院本院において一年、同第三病院において一年それぞれ医局員として勤務し、これまでに慢性中耳炎根治手術については医局長等の指導の下に数回、単独執刀により約二〇回の臨床経験を有していたものであったが、同年三月六日原告花子の本件手術の執刀を担当して午後二時頃手術を開始した。××医師は同原告の左耳介の後を切開し外耳道後上棟を目標にして骨削開をはじめたが同原告は乳様蜂窩の発育不良のため骨壁が固いうえに中頭蓋底が異常に下降していたため、××医師の骨削開の方向が乳様洞に達せず約三〇分経過後も乳様洞開放に成功しなかった。そのため同医師は骨削開を自ら継続することについて危険を感じ、同病院内で会議中の○○○○医師に連絡して本件手術の執刀を依頼した。
○○医師は、ただちに手術室におもむいて執刀を交替し、あらためて同原告の外耳道後壁より削開し、ゾンデで探りながら乳様洞入口部および乳様洞を開放していった。その後、同医師が乳様洞入口部附近の不良肉芽、真珠腫の除去清掃中、同原告に顔面神経の痳痺が発現した。同医師は、不良肉芽、真珠腫等をさらに除去していった際に乳様洞入口部下内方の顔面神経管が破壊されていて顔面神経が露呈していることを認めたのでさらに神経管を開放して顔面神経の露呈を拡大し、痳痺の減少を図った。その後鼓室内の肉芽、真珠腫塊の除去等必要とされている措置をなしたうえ、術創を縫合して手術を終了した。
原告花子の術創はその後約一ヶ月後には治癒し、慢性中耳炎根治手術としては成功したが、顔面神経痳痺は後遺症としてのこった。同病院は同原告に対しビタミンB2B1の投与をするほか、同病院整形外科においてマッサージおよび低周波療法を施して痳痺の回復に努めたが同年九月頃まで同原告の顔面神経痳痺は回復することがなかった。そのため同原告は千葉大学医学部附属病院において痳痺の回復のため再手術を受けることとして被告大学附属第三病院における通院治療を中止した。
以上の各事実を認めることができ、右認定を覆すに足りる証拠はない。
2、原告は、○○医師が予め本件手術執刀担当者と定められていたのに会議出席のため急拠執刀補助者であった××医師に本件手術の執刀を委ね、その結果同医師は技倆不足のため、乳様洞開放のための骨削開中に誤って原告花子の顔面神経を術刀によって損傷したと主張するが、右主張に副う≪証拠省略≫は、≪証拠省略≫に照したやすく信用できないし、他にこれを認めるに足る証拠はない。
3、かえって≪証拠省略≫によれば真珠腫は骨質を破壊する作用があり真珠腫性中耳炎の根治手術においては真珠腫等の病変を除去することが必要不可欠であり、これを怠るときは脳膜合併症を起し生命の危険があること、同病症においては真珠腫が骨壁を破壊していって神経管を侵襲し、病変が直接に顔面神経を圧迫することとなり、そのため病変の除去に際し、顔面神経管内出血、あるいは循環器浮腫等を生ぜしめて、それが顔面神経痳痺の原因となる場合が多いこと、本件の原告花子の病症は真珠腫性中耳炎であって真珠腫の骨壁侵襲も顕著であることが認められる。これによってみれば同原告の顔面神経痳痺は、すでに神経管が真珠腫により侵されていて病変が顔面神経を直接圧迫するようになっていたために○○医師が病変を除去する際に生じたものであって、この場合顔面神経管に損傷を与えることなしに病変を除去することは極めて困難であったものと推認され、この点につき同医師に格別の不手際があったものということはできない。
4、以上認定のとおり原告花子の顔面神経痳痺の発生ならびにその治療について○○○○、××××両医師に過失があったものということはできないし、他に右両名の過失についての主張立証はない。
三、以上のとおりであるから、その余の点について判断するまでもなく、原告らの本訴請求は理由がないのでこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 渡辺忠之 裁判官 山本和敏 大内捷司)